ブレーズ・パスカル
心には、理性の知らない独自の理由がある。
気晴らし:自分の惨めさから逃げ、神を求める
ゆえに、真の幸福は神においてのみ見出される。神こそが私たちの唯一の真の善である。
自分自身とだけ向き合うと、私たちは自分の弱く死すべき状態を目にする。気晴らしはそれを私たちから覆い隠すが、癒しはしない。
パスカルは人々が慌ただしく動き回るさまを眺める。戦争、宮廷、賭け事、狩り。そして彼は、人間のあらゆる不幸は、ただ一つのこと、すなわち部屋の中で静かに休んでいられないことに由来すると結論する。なぜか。自分自身とだけ向き合うと、私たちは自分の状態、すなわち弱く、死すべきもので、慰めようのないものを目にするからである。そこで私たちは、それを考えずにすませてくれる慌ただしさを追いかける。「獲物ではなく、狩り」である。王でさえ、気晴らしがなければ不幸である。しかし気晴らしは何も癒さず、悪を覆い隠すだけだ。もし真の幸福があるなら、それは私たちが追い求めているもののうちには見いだせない。無限の対象、すなわち神が必要なのである。
前提をクリックすると、それを退けられます
暗黙の前提がない場合: P6がなければ、コンピュータは次のような世界を見つける。そこではすべての人が幸福になりたいと望み、気晴らしも被造の善もこの欲望を満たさないが、幸福がそもそも不可能である。人間は永遠に落ち着かないままであり、神は答えにはならないだろう。
反論
3それぞれの反論は一つの対話です。クリックすると、誰が応答しているか、そして議論が今どこにあるかが分かります。
ヴォルテール 1734 · 前提2を攻撃ヴォルテールはこの読み方を暗すぎると考える。人間が何もしないと退屈するということは、人間が惨めであることを証明しない。むしろこの点では人間は幸運だと言うこともできるし、自然の創造者が退屈を無為に結びつけたのは、私たちが他人と自分自身の役に立つよう強いるためだとも言える。そうだとすれば、あわただしさは逃避ではなく、私たちの力の善い使い方である。
応答なし
ヴォルテールはこの読み方を暗すぎると考える。人間が何もしないと退屈するということは、人間が惨めであることを証明しない。むしろこの点では人間は幸運だと言うこともできるし、自然の創造者が退屈を無為に結びつけたのは、私たちが他人と自分自身の役に立つよう強いるためだとも言える。そうだとすれば、あわただしさは逃避ではなく、私たちの力の善い使い方である。
モモンテーニュ 1588 · 前提3を攻撃モンテーニュにとって、気晴らしは自然で理にかなった治療法である。悲しみに捕らわれたとき、彼はそれに正面から立ち向かわない。場所、仕事、交友を変え、ほかの考えの中に身を紛らせると、そこで悪はその足跡を見失う。彼はそこに、自然そのものが癒す仕方を見ている。彼によれば、つねに「変化は和らげ、溶かし、散らす」のである。気晴らしが癒すのなら、それは惨めさがさらに一つ増えることではない。(ここでモンテーニュが語っているのは特定の悲しみであって、人間の境遇全体ではない。)
パスカルの応答
モンテーニュにとって、気晴らしは自然で理にかなった治療法である。悲しみに捕らわれたとき、彼はそれに正面から立ち向かわない。場所、仕事、交友を変え、ほかの考えの中に身を紛らせると、そこで悪はその足跡を見失う。彼はそこに、自然そのものが癒す仕方を見ている。彼によれば、つねに「変化は和らげ、溶かし、散らす」のである。気晴らしが癒すのなら、それは惨めさがさらに一つ増えることではない。(ここでモンテーニュが語っているのは特定の悲しみであって、人間の境遇全体ではない。)
エエピクロス 紀元前300年 · 前提4を攻撃エピクロスにとって、賢者はこの世で完全に幸福になりうる。賢者は欲望を選り分け、わずかなもので満足し、身体の健康と魂の平静を得る。この平静に達すれば、魂の嵐は静まり、生けるものには、欠けているものを探しに行くべきものはもはや何もない。したがって、神だけが満たしうる無限の深淵などない。むなしいものを欲するのをやめるとき、欠乏は満たされるのである。
応答なし
エピクロスにとって、賢者はこの世で完全に幸福になりうる。賢者は欲望を選り分け、わずかなもので満足し、身体の健康と魂の平静を得る。この平静に達すれば、魂の嵐は静まり、生けるものには、欠けているものを探しに行くべきものはもはや何もない。したがって、神だけが満たしうる無限の深淵などない。むなしいものを欲するのをやめるとき、欠乏は満たされるのである。